どうも国府田です

イラストと漫画の制作、郷土の歴史と文化、そして日常。

どうも国府田です

自分の中の縄文遺伝子と、共同体意識。

kazuyacoda

 

ここ数年、自分の中の縄文遺伝子を意識するようになりました。

そもそもそれは、僕が縄文人を漫画やイラストにしようと思った理由の一つなんですが、大事なことなので改めて文章にしてみます。

 

 

一見バラバラな村社会でも各々同族意識を持っていた?

縄文時代の日本列島はいわゆる「国」としてまとまっていませんでしたが、そこに住む人々は各々村を作りながらも、バラバラな文化圏ではなく、列島の北から南までほぼ同じような暮らしをしていました。

 

土器や土偶、竪穴住居、どれをとっても大体同じで、交流による影響もあるかもしれませんが、おそらく同族意識があったんじゃないかと思います。

 

だからこそ大規模な戦争が起きたりせず、1万年以上も長く続いた共同体だったと思うわけで。この同族意識、共同体意識が縄文文化を長く続けさせた大きな要因だったんじゃないでしょうか。

 

残念ながら記録がない時代の話のため、想像の域を出ませんが、縄文文化は滅びたのではなく、「時代と共に新しい文化に溶け込んでいった」と言う方が合っているかもしれません。

 

そう思うようになったのには、ちゃんと理由があります。

 

縄文人は滅ぼされたわけではない。

近年になって、「いわゆる大陸からの渡来人が大量に日本列島に流入し、縄文人を駆逐して弥生時代を拓いた」と思われていた話も、様々な研究から間違っているんじゃないかという見解が出ています。

 

端的に分かりやすい記事を引用しておきます。

渡来人を受け入れた先住民

 では日本人は、いつ、どこからやってきたのだろう。『新日本人の起源 神話からDNA科学へ』(勉誠出版)の中で崎谷満は、次のように推察する。

 バイカル湖畔から南下し華北に暮らしていたD系統だが、漢民族の圧迫から逃れるためにさらに南下し日本列島にやってきて、縄文人の中核を形成した。かたや、弥生時代に渡来した人々は長江流域で水稲栽培をしていたO系統だ。やはり、漢民族に滅ぼされて逃れてきたという。また、朝鮮半島の人びともO系統である。

 現代の日本人の体の中に占めるD系統の割合は3割、O系統は5割と、渡来系の比率が高い。この数字だけ見れば、やはり渡来人に先住民が圧倒されたと思えてくる。 しかし、前回示した「少数渡来」「先住民との融合」「列島人の稲作民化」「継承された縄文文化」「稲作民の人口爆発」という有力な仮説を用いれば、謎はなくなる(2015年5月18日「『任那日本府』の何が問題か」参照)。

 弥生時代の始まりとともに、渡来人の血が少しずつ染みるように先住民の中に受け入れられ、先住民は率先して稲作を選択し、人口爆発をおこした。彼らの子孫は、日本の風土の中で育まれ、縄文時代から続く列島人の風習と伝統を捨てなかった。もちろん、その後も大陸や朝鮮半島の動乱から逃れて人々が日本にやってきたが、彼らが日本列島を征服し、支配したわけではない。

引用元:DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた | ハフポスト

 

大陸は春秋戦国時代、戦乱から逃れた人々が日本列島へやってきます。

つまり、「騎馬民族がそのまま日本に来て支配した」などという事ではなく、元々列島に住んでいた縄文人が大陸から逃れてきた人々を受け入れ、彼らの持つ文化と交わり、やがて時間をかけて弥生文化へと変化していった、というのが実際のところのようです。

 

また稲作一つをとっても、現在では縄文人も米を作っていたことがわかっており、それがただ単に水田作なのか畑作なのかの違いでしかないものだと言う事。

水稲を栽培する方法を取り入れて変化したことは事実ですが、稲作そのものを渡来人から学んだと言うのは間違いのようです。

 

やはり大陸から来た人々によって支配されたのではなく、また縄文人が文化的に遅れていたわけでもなく、いいものは取り入れて変化し、やがて日本文明へと昇華していく土台を築いたと言えるんじゃないでしょうか。

 

 

東北三十八年戦争、戦乱後の世界

やがて時代が変化していく中で、生粋の縄文文化を受け継ぐ人々は、主に北日本に集まっていました。

逆に西日本には大陸からの影響を色濃く受けた人々が、新たなコミュニティを形成していきました。

もちろん西側の勢力も日本列島に住んでいた人々で、どこからか入ってきた全く別な文明の外国勢力等ではありません。

こうしていつの間にか、日本列島の東と西で、見えない線引きがされる状況になっていました。

 

僕も取り扱った話の中で、大和朝廷蝦夷の戦いがあります。

 

kazuyacoda.hatenablog.com

 

列島の西側、つまり大和朝廷は大陸の脅威と向き合っており、勢力拡大のため、当時「未開の地」と言われた北日本へと勢力を伸ばします。

律令国家を形成し、更に国力を強めなければならないれっきとした理由があったのです。

 

当然東北には人が沢山住んでおり、彼らも自分たちのコミュニティを守るために立ち向かうわけですが、最終的には明け渡す結果になりました。

この間38年間の攻防戦が繰り広げられ、日本の歴史では最長の戦争となりました。

 

こうした歴史があるために、「大和朝廷が東北を侵略した」と思われがちですが、根絶やしにしたわけでもなく、奴隷にしたわけでもありません。

抵抗した蝦夷勢力の中心人物であるアテルイとモレは斬首されたものの、朝廷の懐柔策にのった蝦夷達も沢山いたようで、彼らは日本各地に散っていきました。

 

結果的に、蝦夷独特の縄文から受け継いだ文化は、日本各地に広まって溶け込んだと思われます。

 

逆に西側から東北に人が流入したこともあり、もしかしたら青森出身の筆者も、古代までルーツを辿れば西側出身の可能性も無いとは言い切れません。

 

 

縄文人はどこへいった?

縄文人についてGoogle検索をかけると、予測検索に「縄文人はどこへいった」と出てきます。ずっと気になっていましたが、どこへいくも何もここまでのお話の通り、ずっと日本列島で生き続けてきました。

 

縄文人の遺伝子は、現代人にも10%程度受け継がれているとの研究結果が出ており、先にも話した通り滅ぼされたわけではなく、ジワーッと新しい文化、文明へと溶け込んだのです。

 

つまり、我々の中に生きています。

 

jp.reuters.com

 

大事なことは、縄文人が持つ包容力とでも言いましょうか、受け入れて馴染ませてしまう、独特の精神性です。

 

実は現代日本人にもこの精神が受け継がれています。

 

言わずもがな、外国の技術でも受け入れた途端、いつの間にか日本の得意分野にまで進化させてしまう凄さ、しかも高いレベルでそれを実現しているので、俯瞰で見れば、ある意味「驚異」とも言えます。

 

こうした「強み」は縄文人から受け継いだものだと思っています。

 

 

縄文遺伝子は日本人の魂をつなぐ綱。

縄文人の遺伝子が、日本列島北から南まで満遍なく僕らの中に生きているのであれば、まるで一本の綱で魂が繋がっているかのようなイメージを持っています。

奇しくも「縄文」という名称が、偶然そのイメージにあっているのが面白いところです。

 

とすれば、同じ日本人同士なら、地位や境遇によって自分と他人を切り離して見るのは、ちょっと違うのかもしれません。

別に綺麗事を言う気は更々ないのですが、ある種の運命共同体だという見方も出来ると思います。

 

近年「縄文ブーム」と言われるようになりましたが、大事なことは、現代人にも縄文の遺伝子が残っていることだと思います。

 

遠い昔の他人事で終わらせず、どうしたら縄文人のように長く共同体を維持出来るのか。良いお手本が自分たちの足元に眠っています。

 

最後は少々オブラートに包みましたが、様々な外圧がある昨今、日本人全員が考えるべき課題だと思います。

 

 

ということで。