プロローグ:すみかの山
これは江戸時代から語られている、津軽の山のお話です。
八甲田山から続く穏やかな丘陵のすそのに、「すみかの山」と呼ばれる里山がありました。
どうやらそこは、何千年も昔に沢山の人が暮らしたあとが、土深く埋もれているようなのです。
ふもとにある三内村(さんないむら)では、畑を耕すだけで土器のかけらやヤジリが出てくるので、みんなこの話を知っていました。
ある日、弘前のお城から、山のうわさを聞きつけたお侍衆がやってきました。
藩の領内でおきたことを記録するため、あっちこっちの事情を探っては書き残していたのです。
雇われた人夫たちは、スキを使ってどんどん掘り下げていきました。
掘れば掘るほど出て来る土器や土偶の数は、とても全部持ち帰られないほどのものでした。
こうしてこの里山は、遺跡の眠る山として知られるようになりました。
そののち、三河国(みかわのくに)から旅の物書きがやってきました。
博物学者としても知られていたため、弘前藩の学校によばれていたのです。
名を「すがえますみ」といいました。
すがえは薬草の研究に取り組みながら、土地の人たちから様々な事柄を聞きてまわりました。
古い伝承や珍しい話を聞いているうちに、三内村のうわさが耳に入ってきました。
村をたずねてみると、古くなって崩れた川の堰(せき)から、土器や土偶がゴロゴロ出てきた話を聞きました。
たいそうおどろかされたすがえは、この時の様子をつぶさに記録しています。
これが「紀行文・栖家の山(すみかのやま)」として、後の世まで残ることになりました。
さてさて、大昔の「すみかの山」には、どんな人々が住んでいたのでしょうか。
土器や土偶、ヤジリやアクセサリーなど、あれだけ沢山出て来るような土地ですから、きっと住んでいた人の数もかなり多かったことでしょう。
さぞかし大きな村だったに違いありません。
何千年も前のこの土地に、どんな村があったのか、のぞいて見たいと思いませんか?
それでは・・・・・
いざないましょう、縄文の世界へ!
…ん?